逍遙のふるさとに新しい風が吹く

 日本の文学界や演劇界への大きな功績で知られる坪内逍遙。彼がこのまちの出身であることは、みなさんもよくご存じのことです。
 安政6年(1859)、現在の太田本町で、代官所役人の10番目の子供として生まれた逍遙。本や芝居が好きな母の影響を受け、絵を描くのが大好きで、家族に「未生まれの紙食い虫」と呼ばれました。近くの神社では、つばきの実で「木の実振りっこ」をして遊んだとのこと。後に現在の名古屋市へと転出したので、この地で過ごしたのはたった10年あまり。しかし、幼い日々に絵や書に親しんだことが、文豪としての資質を芽生えさせたのかもしれません。
 明治18年(1885)、革新的な文学論『小説神髄』と小説『当世書生気質』を発表。これにより、勧善懲悪主義が主流だった文学界に写実主義を提唱。日本の近代文学に大きな影響を与えました。また、新しい演劇の研究にも力を注ぎ、次々と作品を発表。晩年には『シェークスピヤ全集』を一人で完訳し刊行するなど、演劇界にも大きな足跡を残しました。
 わたしたちの誇り、偉人坪内逍遙。その功績をたたえて市が創設した「坪内逍遙大賞」は、演劇界の1年間で最もすばらしい活躍があった団体または個人に贈られます。また、逍遙の誕生日である5月22日には「坪内逍遙生誕記念祭」が行われ、市内でシェークスピア劇が上演されます。
 第4回坪内逍遙大賞記念公演には、加茂高校演劇部が出演。シェークスピア劇では市民の参加者が活躍。第3回坪内逍遙大賞がきっかけで、朗読講座が発足。これらが、やがて全国へ発信できるものに育つよう期待が高まっています。
 逍遙生誕の地で始まった、逍遙を中心としたまちづくり。やがて21世紀、新しい時代にこのまちは、今よりもさらに輝きを増すことでしょう。
   


安政6年
(1859)
1歳 5月22日、美濃国加茂郡太田村(現太田本町)に生まれる幼名は勇蔵、のちに雄蔵と改名
明治2年
(1869)
11歳 父平之進が帰農して名古屋の笹島に転出
明治9年
(1876)
18歳 県選抜生として上京。開成学校(東京大学の前身)に入学
明治11年
(1878)
20歳 東京大学文学部本科(政治経済科)に入る。このころイギリスの小説をたくさん読む
明治16年
(1883)
25歳 東京大学卒業。東京専門学校(早稲田大学の前身)の講師となり、外国 歴史・憲法論などを担当
明治18年
(1885)
27歳 小説神髄  当世書生気質 を出版
明治24年
(1891)
33歳 小説神髄  当世書生気質 を出版
明治92年
(1896)
38歳 早稲田文学 創刊 早稲田中学創設に参加、教頭となる
明治32年
(1899)
41歳 「牧の方」 桐一葉 などを出版
明治35年
(1902)
44歳 文学博士の学位を受ける早稲田中学校長に就任
明治39年
(1906)
48歳 文芸協会の創設に参加、「桐一葉」「ベニスの商人」歌劇「常闇」を上演
明治42年
(1909)
51歳 文芸協会演劇研究所を開設
明治44年
(1911)
53歳 文芸協会会長となる
大正4年
(1915)
57歳 「ハムレット」第1回公演 
大正9年
(1920)
62歳 早稲田大学教授辞任 双柿舎落成 
昭和3年
(1928)
70歳 早稲田大学演劇博物館開館 シェークスピヤ全集S完成
昭和8年
(1933)
75歳 新修 シェークスピヤ全集 第1回 配本
昭和10年
(1935)
77歳 2月28日逝去。早稲田大学葬が行われ、熱海市の海蔵寺に埋葬される
*年齢は数え年



逍遙のふるさとに新しい風が吹く 目次

第4回坪内逍遙大賞受賞記念 朗読講座 坪内逍遙生誕記念祭 逍遙が残した足跡
他のバックナンバー Topに戻る