このまちにくらしはじめて

 ウメバラヒロシさん一家は、妻のアナさんと娘のサユリさんの3人家族。初めて日本に来たのは平成4年。その後、一時帰国などを経て、今年から市内に住み始めました。
 そんなウメバラさんとご家族に、このまちでのくらしについてうかがいました。


日本語はわかるよになったけど、
災害のときにうまく避難できるだろうか。


ウメバラ ヒロシ さん
ウメバラ家の大黒柱。愛知県小牧市内の会社に勤務。


「私たちが日本にやってくるころのブラジルは、インフレが続き景気が悪化。そんなとき、日本の法律が変わって日系人が入国しやすくなったと聞いたんです。当時は日本の景気も良くて就職先もあったことから来日を決意。入国の手続きや就職先の手配などは、日本の人材派遣会社が手伝ってくれました。
 来日したころは、3人とも日本語が話せなかったんです。ブラジル人も少なかった。でも、日本人と仕事をするなら日本語は不可欠。必要に迫られたことが、私の日本語上達につながりました。今では、半分くらいなら理解できます。
 現在働いている会社は、ブラジル人がたくさんいて、日本人とコミュニケーションをとることは少なくなりました。昼休みなどはブラジル人同士でいることがほとんど。母国の人たちと母国語で会話ができるから気楽です。日常生活でも同じことですね。
 普段のくらしでこわいのは災害のとき。会社にしろ自宅にしろ、地震や火事のときは日本語で避難誘導があると思います。しかし、半分くらいしか日本語がわからない私たちが、はたしてうまく避難することができるかどうかを考えると、ちょっと不安になります。


ブラジルに帰国するその日までに、
娘はポルトガル語を学んでおかないと。


 美濃加茂市に来て数か月、特に不便も感じないでくらしています。
 しかし、ことばはやはり大きな壁。突然の発病で救急車を頼んだり医療機関へ行ったりしても、症状が説明できないし、何を聞かれているのかもわからないと思います。助けてほしいときに助けてもらえない。私が一番不安に感じるのは、そのことです。
 市役所ではいろいろな手続きがあるので、ポルトガル語の話せる職員が応対してくれると助かります。また、各窓口ごとの配布資料ではなく、福祉・保健のことからごみの分別などまでわかるような、ポルトガル語版のガイドブックがあればいいなと思います。各市町村ごとで手続きのしかたが違うので、特に、新たに美濃加茂市へやってきたブラジル人には参考になります。それから、文書などはローマ字で案内があると、少し日本語のわかる私たちにも理解しやすくなります。
 3歳で日本に来たサユリは、私たちと違ってポルトガル語よりも日本語が得意。家族との日常会話程度であれば、ポルトガル語で話すこともできますが、やがてブラジルに帰るときのことを考えると、やはりサユリはポルトガル語を勉強しなければなりません。国際交流協会のポルトガル語講座や、美濃太田駅南の「ブラジリアンスクール」には、そういった私たちの不安を解消してくれる存在として期待しています。


友だちもたくさんできた。
学校へ行くのはとっても楽しいよ。


 家族で日本に来たとき、私はまだ3歳。日本語はテレビを見ながら覚えたのよ。今はもう小学生だから、国語の本もちゃんと読めます。家では日本人のお客さんが来たりすると、私が通訳することもあるわ。近所の人のために通訳したこともあるの。
 苦手な科目は算数。日本語の授業ではよくわからないので、ほかのブラジル人の子たちと一緒に、日本語学級で勉強します。
 小学校では、外国人だからといっていじめられたこともありません。私には日本人の友だちもいっぱい。毎日楽しく過ごしています。



特集/Bom Dia,Minokamo.

Bom Dia,Minokamo.
このまちにくらしはじめて
私が考えるブラジル人との交流
国際交流協会による交流活動
他のバックナンバー
Topに戻る