ブックタイトル広報みのかも05月号

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広報みのかも05月号

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概要

広報みのかも05月号

世界はすべて劇場である…シェイクスピアにちなむグローブ座の表看板の格言であり逍遙が建てた早稲田大学演劇博物館にも掲げられている言葉です。坪内逍遙は1859年(安政6年)5月、美濃加茂の地で生まれました。美濃加茂市が隔年で行っている「坪内逍遙大賞」をはじめ、逍遙の誕生月である5月に合わせて、市民や演劇関係者らによる逍遙に関連した行事も行われています。今月の特集は、その美濃加茂の偉人「坪内逍遙」について皆さんにご紹介します。その時の思い出を語っています。と言葉を掛けたと、後に逍遙はの武士が近寄り、「えらくなれよ」過を見ていた幼い逍遙に、年配店先から、恐々とその一行の通太田宿を通過。宿場の煙草屋の田だ耕こう雲うん斎さ(い※2)率いる天狗党が攘じょう夷い(※1)を唱えて挙兵した武たけ元治元年(1864)には、尊そん王のうたりしていたようです。りっこ」という遊びに夢中になっ内にあった椿の実で「木の実振びをしたり、深田の天神神社境そうです。また、木曽川で水遊い虫」と家族から呼ばれていたとても好きで、「未生まれの紙食物や動物を描き、色を塗るのが幼少のころの逍遙は、紙に人れました。して生まれ「勇ゆう蔵ぞう」と名付けら校敷地内)で尾張藩士の息子と藩太田代官所」(現在年(1859)5月の22太日。田「小尾学張れ変わろうとした幕末の安政6日本中の何もかもが新しく生ま大嶽」や「横浜港開港」など、逍遙が生まれたのは、「安政の美濃加茂と逍遙らシェイクスピアの講義を受けく教師であったマックレランかスチャー入りの朗読法や、同じ校へ入学。教師レーザムのジェ明治5年、逍遙は愛知英語学けました。となる「演劇」に深い感銘を受後に生涯をかけて取り組むことと名古屋にできた劇場へ出掛け、ち、明治という新時代に、続々や姉の影響で観劇にも興味を持たと懐古しています。また、母ほどで、大惣は心の故郷であっなっても大惣のことは夢に見るう貸本屋へ通いました。晩年に住後、大おお惣そう(大おお野の屋や惣そう八はち)とい明治2年、逍遙は名古屋へ移若き日の逍遙▲青年期の逍遙(『逍遙選集』「同胞」より)◎坪内勇蔵から雄蔵、逍遙へ逍遙は「勇蔵」と名付けられましたが、内気で弱気な性格だったので、自分と掛け離れた性格の「勇」の字を嫌い、後に「雄蔵」と改名しています。また、後に名乗る「逍遙」とは「荘子」の中の句から取りました。逍遙とはぶらぶら歩くという意味です。【※2】幕末の人物。水戸藩の天狗党首領おうとする思想・運動【※1】天皇を敬い、異国の脅威を打ち払した。士号を取得し、文学士となりまを無事に卒業してその後、明治専16年攻に学東科京の大学学せん。ての基礎を作ったのかも知れまの経験が「教育者逍遙」としるようになりました。このときため、私塾を開いて学生を預かそこで、生活費と学費を稼ぐ格を失ってしまいます。年試験に不合格となり給費生資東京大学)に入学しますが、学上京し、東京開成学校(現在の明治9年、県の選抜生としてました。2017.54