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伊深への疎開【解説】「伊深日記」の前に、佐野は「つゆくさの日記」と題し、日記を書いています。ばらばらに神戸をたった家族が岐阜駅で落ち合い、高山線から越美南線(現・長良川鉄道)に乗り換え、伊深へたどり着くまでが刻々と記されています。一家は、縁のあった正眼寺に身を寄せ、仮住まいを始めます。ここでは、家族がそれぞれ持っていた疎開時の「てにもつルュクサクランドセルふろしきづつみ」などが絵入りで描かれています。戦時中の伊深昭和二十年三月三〇日「つゆくさの日記」六十巻三十頁【読み下し】(前略)大阪を五時五分の米原ゆきにのり、すわりえたりしが、米原にてのりかへて岐阜まで汽濯車のぢきあとのくるまののりおりぐちにこらとうづくまりつゝからくも(岐阜に)たどりぬ。九時半につくべかりしが警報いでなどして十一時すぎになりぬ。さいはひ渡辺かたにいたり、二階にあがり、のどかわきけれバみづをこひてのみしのみとこをのしべてたゞちにいねけり。(注)渡辺…渡辺考。加納町に住んでいた佐野の教え子。【参考】同年四月一日「つゆくさの日記」六十巻三十四―三十五頁【読み下し】(前略)電話かゝりて、つまなり。いまつきぬとなり。いそぎにをもち、孝と久子とにおくられて駅にゆく。あひえしよろこびかはすいとまもなく高山線にのりこむ。(中略)太田にてのりかへの二時間をすごす。のりかへて加茂野につきけるは六時なりき。駅まへの丸通にて自転車をかり、つま、篤子をうしろにのせてはしる。(中略)おのれとこらふたりはあるきぬみちにてたそがれててらにつけばすでにくらし。副寺寮にいたり(中略)そとにウメのかほりみちてゆかしきよひなり。たびのつかれあれバはやくねいりぬ。(注)久子…考の妻。篤子…一彦の妹。ともに伊深へ疎開。【解説】昭和二十年夏、戦争は厳しさを増していました。村の若者が出征した七月二十日は、家と役場、村の辻で万歳を唱え見送る様子が記されます。この頃、配給によるイモやマメ、ムギなど代用食の日々が続きました。ダイコンやノグサ(野山で摘んできた草)を米に混ぜ食べました。また、子どもたちは供出(政府が民間の物資や農産物などを一定の価格で半強制的に売り渡させること)のため、縄ないやワラゾウリ作りなどをしました。桑の皮を供出するため、近所の家で作業した様子も記されています。昭和二十年七月二十二日「伊深日記」四巻八十四―八十五頁【読み下し】(前略)Yかたのすゑむすこ入営にて、あさげののち、つまとこらもともなひてみおくる。いへのまへにひのみはたをたてたり。むらびとらあつまりにはにて万歳をとなへ、いでゆくわかものイッテマヰリマスとをゝしくあいさつしていでたつ。ひとびとおくりてやくばのまへにいたる。こゝにてふたゝび万歳のこゑにイッテマヰリマスのあいさつ。それよりO(かた)のかどにいたり、みたび万歳とわかものゝあいさつ。わかものは自転車にのりてとほざかる。(後略)【参考】同年四月一日「伊深日記」三巻五頁【読み下し】(前略)(春枝と)ともに配給米をとりにゆく。コメ三分の二ホシサツマイモ三分の一のわりなり。このつきは岐阜縣はおしなべてとをかは代用食なるよし。ところゞゝゝことなるべけれど、ダイズ、ホシウドン、コムギコ、ホシサツマイモ、ジャガイモ、ヒラムギを代用食に配給のよし。春枝にホシイモをせおはしめおのれはコメのふくろをせおいてかへる。(後略)(注)春枝…佐野の長女。同年八月六日「伊深日記」三十巻五頁【読み下し】(前略)敏彦、春枝ひるげにかへりきてしばらくひるすぎの授業はなしと。なはをひごとに四十ひろなひて供出すべしとぞ。ひるすぎそのなはなひにいそしめり。(後略)(注)敏彦…佐野の甥(おい)。しばらく伊深に疎開していた。昭和二十年七月二十二日(伊深日記四巻八十四―八十五頁)▲同日(伊深日記四巻八十六頁)▲昭和二十年三月三十日(つゆくさの日記六十巻三十―三十一頁)▲5 MINOKAMO 2015.8.1